Masako Hirao 平尾雅子オフィシャルサイト
ホーム > t02_violadagamba

私とヴィオラ・ダ・ガンバ その5

昨年1月に発売になったCD「マラン・マレの横顔 IV, 万華鏡」が2007年レコードアカデミー賞(音楽史部門)に選ばれました。このシリーズの4枚目で、今まででいちばん小さい編成のリュートだけの通奏低音です。決して派手とは言えないCDですが、皆川、美山、濱田、那須田先生方からこの上ないご好評をいただき、本当に大きな励みになりました。

実をいうと、録音する前は、選曲からリハーサル、新しい楽器の調整(ドンマイヤー、鈴木作7弦)等々、かなりの時間を費やし、”渾身の気合いを入れた一枚”のつもりでしたが、録音を終えてCDになった段階では、ゆったりとしすぎた演奏になってしまった気がして、果たしてどのように受け入れられるものか、どんどん自信がなくなっていくようでした。もっとも自信があるCDなど今までで一枚もありませんど・・・。

私はいつもCDの編集の段階では、何回も何回も繰り返して聴きますが、製品として出来上がってからは、ほとんど聴きません。というのは、10年くらいたつと少しは客観的に聴けて結構楽しめたりするのですが、発売されてすぐは、あそこはこうすれば良かった、今だったらこうするのに・・・と、細部ばっかり気になって、まったくいい気分でなんか聴けないのです。この前の「私とヴィオラ・ダ・ガンバ」で書いたような最近の流行とはまったく逆行したCDですし、好き嫌いが分かれると思います。でも、このCDが受賞したことで、マレの美の一面を世間に知ってもらえるきっかけになったら、本当に嬉しいことだと思います。

共演して下さった金子浩さんは、とてもねばり強い人で、時間をかけて音楽をじっくり練るタイプの音楽家です。彼なりの音楽的アイデアも豊富で、随分ディスカッションしました。それは、テオルボにするかアーチリュートにするかの議論から始まりました。テオルボはフレンチらしい深い和音が得意で、雰囲気としては最も相応しく、当時もテオルボを使うことが多かったと思われますが、残念ながらアーチリュートのような中高音域での広がりがありません。いろいろ試した上、結局この録音では、ガンバとのデュオの対話を重んじるべく、対旋律の付けやすいアーチリュート調弦でやることになりました。

とはいえ、リュートだけで効果的な通奏低音のできる曲選びはやさしくはありません。調性などチェンバロに比べて制限の多い楽器なので、それなりにリュートならではの長所を生かせるものでなくては、あえてこの組み合わせにする意味がありません。ガンバとリュートのピアニッシモの美しさを大切に、この編成ならではのきめ細かい表現をめざし、マレのメッセージを見逃すことなく音にしたいと思いました。また今回のように通奏低音の低弦がない場合、通奏低音声部に細かい音符が多いと、リュートはそれだけで手一杯になり、和音や対旋律を付けることが難しくなるので、むりに全曲通してリュート一本に相応しい組曲を探すのはやめて、ピエス(小品)としてマレ全曲をながめ、そこからこの編成に適する曲を選んで、繋がりよく並べることで、「人生の万華鏡」のように仕立てようと思いました。ただこのような方向で曲選びをしていると、似たような曲が候補に挙がってしまい、メリハリのないプログラムになってしまう危険があります。そのあたりが今回の曲選びでいちばん苦労した点と言えます。たくさんの制約の中で、それでもこの雰囲気だけはこの組み合わせにしかできないこと、それがあるからこそやる価値がある、そう信じて作ったCDでした。

マレを弾きはじめて、はや35年。でもまだまだ今まで気が付かなかったこと、新たな発見があります。スポーツ選手ならとっくに現役を退いている歳ですが、つくづく音楽家でよかったな、と思います。

2008年1月8日

私とヴィオラ・ダ・ガンバ その4

最近ヨーロッパへ行って、あるいは留学生たちと話していて思うこと、それはガンバのテクニックの新しいブームがあることです。私たちはバロックの時代に書かれた技法にしたがって学んできたわけですが、別のやり方があるイタリアの奏者の出現以来、若い人たちの間で流行しています。

それは具体的に言うと、弓先ではなく、弓のもとのほうで、カリカリとスピッカートで弾くテクニックです。そしてテンポはどんどん速くなっています。聴衆の耳にもそのほうがかっこよくきこえるのかもしれませんが、ただ、ガンバのふくよかでたゆたうような美しさ、メッサディヴォーチェの魅力は残念ですがほとんど感じられません。もちろんレパートリーにもより、1750年以降のグラウン、ハンマーといったチェロっぽい曲ばかり弾くなら、それでいいのかもしれませんが、やはり一番おいしい時代は、マレをはじめとするガンバの全盛期の音楽だと思うのです。人の好みはさまざま、好き嫌いの問題であって、善し悪しではありません。ただ、マレなどを弓のもとで硬い音で弾かれると、悲しくなってしまいます。特にこだわった装飾音が細かく書き込まれた活発な曲を、装飾音なしで(あるいは聞こえない!)とにかく速く弾きとばしてしまうのは、可愛い小さな花を無視するようで、とても残念です。躍動感とは別の問題だと思います。

時代が欲しているスピードというのがあるのかどうかわかりませんが、本当にここちよいテンポというのを、流行に惑わされず追求していきたいと思います。ブームに流されてしまうと、いいことはなにもないです。ただ、若い人たちのする、これはいい!と思うことは、自分にはなかった新しいことでも、どんどん吸収していきたいですし、ずっとフレキシブルな感覚を持っていたいと常々思っています。バロック以降の曲を弾くとき、もし両立できるのなら、新しいテクニックを練習する価値があるかもしれない、と思っています。やさしくはないですけれど。(笑)

ただし、少なくともバッハ以前は、ガンバでおしゃべりをするのは、絶対に弓先です! 当時の人が言っているようにそのほうが合理的ですから。楽器がそうであるように、テクニックも、したい音楽で決まるということでしょう。


20年越しの翻訳が来年やっと出版されることになりました。ディエゴ・オルティスの「変奏論」です。一番最初は、ベーレンライターのドイツ語から日本語に訳したのですが、納得のいかないところが多々あり、いつかは原語から、と思っていました。それが数年前、数カ国語の翻訳ができ、16世紀の音楽に造詣の深い音楽研究者、吉村恒さんが協力して下さることになり、スペイン語とイタリア語の原語のファクシミリを並べて、すこしずつ進めてきました。

この種の翻訳は、その楽器を熟知している者と、時代背景を知り、語学能力の長けた者の協力が絶対不可欠だということを痛感しました。なかなか意味が腑に落ちず、一文に数ヶ月費やすこともありました。その上、演奏会があると中断するし、思うようにははかどらず、ここまできてしまいました。出版社が決まった今、オルティスを読むまえに、時代のこと、彼らの音楽的常識を知ることが、正しく解釈するために必要だということで、解説を書く作業に当たっています。当時のことを調べ始めると、芋ずる式に興味深いことがいくらでも出てきて、読者におもしろく読んでもらえるようにまとめるのは、とても大変です。でもここまでやってきたのだから、あともうすこし、頑張って完成させたいと思っています。出版のあかつきには、どうぞ読んで下さいね。楽譜も今まで出ている現代譜の誤りを すべてクリアーにします。 

2007年9月6日

私とヴィオラ・ダ・ガンバ その3

1985年のこと、ついに探し回っていたオリジナルガンバを手にすることができました。1695年頃、ハンブルクの名工として有名なヨアヒム・ティールケが製作した6弦のガンバです。サザビーのオークションで、チェロとして出品されていたものでしたが、実はティールケはチェロを一台も作っていません。というのは、ガンバが使われなくなったころよくあったことなのですが、ガンバを解体してチェロに作り替えられていたのです。しかし、少しふくらんだ彼独特の裏板、それに施された彫刻やライオンヘッドなどはまさにティールケのガンバそのものです。渋谷のヴァイオリン製作家佐藤正人さんが苦労して、ガンバに再び戻して下さいました。一度開けた楽器、初めは音がこもってなかなかオープンになってくれなかったのですが、あれから22年、随分変わりました。楽器は生き物です。線は太くなく、よくとおる、そしておいしい音がします。やはりドイツのガンバらしい、輪郭のはっきりした楽器です。

7a.jpg
駒には謎のニスが塗られています。これが音に大きく作用しています。二月空提供


しかし、マラン・マレなどのフランスの曲を弾くときは、7弦がないためオクターヴ上げたりいろいろ苦労するので、7弦ガンバもずっと欲しいと思っていました。オリジナルもだいぶ探したのですが、高額すぎたり、大きすぎたり、音色や形が好きじゃなかったりで、なかなか私が欲しいような楽器はあらわれませんでした。ところが、4年ほど前、府中のドンマイヤー、鈴木健一さんのヴァイオリンを見て、こんなにいい新作の楽器もあるんだと驚きました。そして、7弦ガンバを作ってみて下さいませんかと、ティールケの調整に行くたびに、再三お願いしました。7弦ガンバは6弦ガンバより難しいのですが、弦楽器製作にかけて経験の豊富な彼ならきっとできると思いました。最初は渋っていた彼も、じゃ、いろんなメジャーメントを集めてみてと、だんだん乗り気になって、ついに製作に取りかかって下さいました。しかし、初めてのガンバ、何大抵の苦労ではなかったようです! でも、製作家のアトリエまで、1時間そこそこで通える距離にあるというのは、有り難いことです。なんどアトリエに通ったでしょうか。完成後も2年くらいはああでもないこうでもないと、本当に私のわがままを聞いてもらいました。いえ、今でも聞いてもらっています! ほんとうに感謝! 3つの候補の中から結局ジュネーブにあるコリションをモデルとして作ってもらいましたが、6弦のティールケとすぐに持ち替えができるように、弦長など私仕様にしてもらいました。また、いろいろなところが研究家鈴木さんのオリジナルアイデアが組み込まれていますので、もはや鈴木オリジナルといってよいでしょう。

7弦ガンバの音の性格は6弦ガンバのそれとはまったく異なります。この楽器でフランスものを弾き出すと、ドイツのティールケになかった音のふくらみ、とてもゆたかな響きに包まれた感じがします。これは音楽の求める音色の差であり、要するに違う2種類の楽器なのです。コンサートのプログラムによって、楽器を選ぶ贅沢がやっと実現しました。ただ、さすがにひとつのコンサートの中でいろいろな国の曲を弾く場合は、二台をとっかえひっかえするのはあまり好きではありませんが・・・。
 
ちなみに私はもう一台バスガンバを持っています。それは、ジョルディ・サヴァル所蔵のルネサンス・ガンバ、ザネットのコピー(セルジ・カサデムント作)です。ルネサンスや初期バロックを弾くときは、この楽器を使います。がっちりとぶあつい楽器ですが、バロックとはまたぜんぜん違う澄んだ音色を持っています。

Marais2.jpg
昨年2006年は、私にとって忘れられない年になりました。3月に昔からの友人有松清人さんが突然亡くなられました。彼は私の7弦ガンバを聴くのを楽しみにしていて下さったのですが、ついにコンサートで聴く前に逝ってしまわれました。彼とアントレの品川幸子さんが中心になって計画されたマレ・フェスティヴァル(5月27,28日)のときに、当然いるべきところにいらっしゃらなかったことは、今でも本当に残念でなりません。

Marais3.jpg
マレ・フェスティヴァルの最後のコンサートでは、光栄なことに天皇皇后両陛下がお見えになりました。コンサート後、楽屋にもお揃いでお越し下さり、30分間にわたり出演者全員にお声をかけて下さいました。そしてガンバや古楽器についていろいろとご質問下さいました。お二人とも気品があるだけでなく、とても気さくで好奇心があり、こんな素敵な方々を皇室とする日本人であることを、私は今更ながら誇りに感じました。

Marais1.jpg
上3枚ともマレ・フェスティヴァル、浜離宮朝日ホールにて。アントレ品川さん提供


このコンサートには、病気がちだった両親も足を運んでくれました。私の演奏より天皇陛下が目的だったかと思いますが・・・。(笑) 特に父はあまり音が聞こえなかったようですが、その喜びようはふつうではなく、コンサートの2日後、子供でもないのに私に腕時計を買ってくれました。その父はその後状態が悪くなり入院、7月に他界しました。マレ・フェスティヴァルに来てくれたのが最後の演奏会、そして苦笑しながら買ってもらった腕時計が、生涯の宝物になりました。

つづく

私とヴィオラ・ダ・ガンバ その2

日本に帰ってきてから2年くらいの間は、白状してしまうとヨーロッパがとても恋しい時間でした。まだ28才という年齢もあり、若気の至りで、自分がヨーロッパでしてきたことは最先端、自分が知っていることは最新情報、と今思うとまったく鼻持ちならないことを考えていたように思います。これは多かれ少なかれ留学から帰国した人が陥りやすい危ない落とし穴です。ここで脱皮するかしないかが、おおきな分かれ目になると思います。

当時、日本では古典舞踏研究会を発足するということで、実際にルネサンス、バロックのダンスを教える人を探していました。私は、子供の頃バレエをやっていたことがあり、踊るのが好きで、バーゼルでのヒストリカル・ダンスの授業をずっと取っていたので、帰国するなりダンスの講師として推薦されてしまいました。他に誰もいない、と言うことで引き受けたのですが、研究会以外からも、ダンスを教えて欲しいという要望がひっきりなしに来てしまい、あ~、またダンスか、ガンバが弾きたい・・・、と思うこともありました。(でも、そのころ初めてヒストリカル・ダンスに触れ、今ではその専門家に育った方々がいらっしゃるのは、とても嬉しいことですし、少しは種まきになったな、と自負しています!)

ガンバの仕事よりダンスの仕事のほうが圧倒的に多い時期でしたが、そうこうするうちに、子供ができて、妊娠期間中を合わせると7ヶ月ほどはまったくガンバを弾くことができませんでした。育児をしながら、このままガンバをやめることもできるし、そうしたらどんな生活になるのか、もんもんと考えました。でも私のガンバを弾きたいという欲望は、どうしても押さえることができず、主人や主人の母、両親たちに迷惑をかけながらも、なんとか育児と仕事を両立したいと思いました。子供が大きくなるまで、ガンバを続けるために随分と人間関係のストレスを感じ、なんども放り投げたい気分になりました。しかし、ここまでやってこれたのは、母の一言に助けられたからです。「みんなのおかげで、好きなガンバを弾かせてもらっていることを喜びなさい。」

演奏家は、何かと人前に出て、派手であり、恵まれているように見えます。確かにそうですが、願望実現という言葉があるように、自分の未来は自分で作っていくのだと私は思っています。「いいわけ」があるのは、そこまで欲していないからだと思うのです。演奏は楽しいことですが、やはりプロとしてやっていこうと思うと、人には言えない、それこそいいわけを言ってはいけない、厳しさがあります。私などは不器用な上、大人になってからガンバをはじめたわけですから、本当に厳しいものがありますが、願望が強いこと、そして、ただねばり強さだけが取り得だと、自己分析しています。

つづく・・・

私とヴィオラ・ダ・ガンバ

MasakoHirao私とガンバの出会いは、大学1年生の4月のことでした。国立音大の楽理科に入学した私は、西洋音楽史がやりたくてこの科を選びました。音楽史を習った高野紀子先生の講義は毎回とてもおもしろく、勉強なりました。コレギウムという授業でリコーダーかガンバを履修することになり、どうゆうわけかどうしてもガンバがさわってみたくて、限りある人数にすべりこませてもらいました。教えて下さったのはお亡くなりになった大橋敏成先生で、それまでピアノしか知らなかった私は、こんなに楽しい楽器があるのかと天にも昇る気持ちになって、週1回のレッスンが待ち遠しくてしかたなかったのを覚えています。それ以来、学生生活4年間はガンバ三昧の毎日でした。卒業間近になったころ、お二人の先生がバーゼルのスコラ・カントルムへの留学を勧めて下さり、両親は最初は難しそうな顔をしていましたが、最終的には納得してくれました。


当時バーゼルは、今は大御所となったジョルディ・サヴァル氏が、新進気鋭のガンバ奏者としてスコラで教え始めて2年目という時期でした。若いジョルディは、時間のたつのを忘れ、とても熱心にもっていることすべてを教えて下さいました。信じられないような時間が過ぎていきました。レッスンの帰り道は、その日習ったことが頭からこぼれそうになるほどいっぱいになって、ノートを作って一生懸命書き込んだものです。一緒に入学試験を受けたのは、クリストフ・コワン。18歳だった彼と合格の喜びを分かち合ったのが懐かしく思い出されます。ちなみに、彼は若くても最初からものすごいインテリで大人でした。ジョルディはいつも一目置いていました。でも見かけはいつもベレー帽をかぶってかわいかったです!


ちょうどそのころ、ジョルディはエスペリオンXXというグループを作り、活動を始めていました。スイスの小さな街で初めて聴いたエスペリオンのコンサートの強烈な印象はいまでも忘れられません。3年目くらいのとき、私もエスペリオンで弾いてみるかと言われ、それ以来ヨーロッパを離れるまでコンサートやレコーディングに参加しました。アンサンブルのコツ、プログラミングのコツなど随分そこから学ぶことが出来たように思います。ただ、ワンマンで時間にルーズなこのカタロニア人の先生と一緒に仕事をするのは、ストレスに強い人間でないと務まりません。A型で日本人の私には、結構きつかったのは事実です。


バーゼルのスコラは、ディプロマはソリストディプロマしかなく、コンセルヴァトワールや他の学校のように教員ディプロマというのは存在しません。ソロのレッスン以外に、通奏低音、記譜法、声楽、ソルフェージュ、ルネサンス、バロックダンス等々の授業、さまざまなアンサンブル、卒論にあたるディプロマアルバイトなど、ディプロマを取得するには学生はとても忙しい毎日を過ごします。もっとも私の場合は、白状してしまうと、ディプロムアルバイトを提出したのは日本に帰ってからで、卒業証書をもらったのは、ずっとあとのになってからでした。学業と平行してエスペリオンがあったので、とてもじっくり調べ物をする余裕もなかった、というのは言い訳・・・。でも、卒業証書をもらったときは、さすがにやっと終わったという達成感がありました。A型ですから・・・。


ディプロマ試験の校外審査員がヴィーラント・クイケン氏だったこともあって、その場で、ハーグでレッスンを受ける承諾を得、いままでとぜんぜん違う環境で1年間を過ごすことになりました。主人の山岡重治が、ちょうどハーグで公開していたフレッド・モーガンのリコーダー製作授業を受けることになっていたので、ちょうどいい具合でした。ヴィーラントは、ジョルディとはまったく違う音楽性の持ち主ですが、とても多くの私にとって新しいことを勉強することができました。曲に対する観点、アプローチの仕方がこんなにもいろいろあり得ることを知り、また特にボウイングについてシヴィアーなレッスンを受けました。


主人が日本で工房を持つ目処がつき、後ろ髪を引かれるように帰国した私でしたが、私の場合、日本に帰ってやっと一人の音楽家として自立できたような気がします。ジョルディとヴィーラントという巨匠たちは本当に大きな存在で、近くにいると、その引力に負けてしまいそうなくらいでした。自分と作曲家と本当に正面から向き合うためには、彼らから距離をおくのが、私にとっては得策だったと思います。もっとも、西洋の音楽を日本でするのは、日本の伝統音楽をするのとは大きく違い、いつまでたってもヨーロッパが本場という意識が、ヨーロッパ人にも日本人にもあり、そこは実際つらいところです。ヨーロッパの空気を忘れず、いつも頭をフレキシブルに、そして感覚を敏感にしておくことが、日本で西洋音楽をやっていくのに、重要なことだと思います。そうすれば、我々日本人のバロック音楽だって、決して捨てたモンじゃない、と信じています! 音楽家をだめにするもの、それは「思い上がり」と「悲観」です。


留学から帰国するまでのお話を書きましたが、続きはまた次回・・・


  • トップページ
  • プロフィール
  • 私とヴィオラ・ダ・ガンバ
  • インフォメーション
  • ディスコグラフィ
  • ブログ
  • お問い合わせ
COPYRIGHT © 2007 Masako Hirao. ALL RIGHTS RESERVED.